秋の京都集会

23日は、京都史跡巡りをしてきました。
参加者は、17名、天候もよく、行楽日和で楽しく廻れました。
11時に京都駅に集合、タクシーの分乗で「駒井家住宅」まで。
疏水側のお宅で、二階から大文字の「大」が大きく見えます。

「駒井家住宅 」(通常は非公開)
京都帝国大学理学部、現在の京都大学で教授を務めていた駒井卓博士・静江夫妻の住居として建てられました。駒井博士は「日本のダーウィン」とも称された、日本の遺伝学の権威でした。
見学後、マクドで軽い食事後、徒歩で詩仙堂まで、そのすぐ手前に「一乗寺下り松」があります。
「一乗寺下り松」
宮本武蔵と、京都の吉岡道場一門の決闘が行われたという場所です。吉岡一門は70数名。弓や鉄砲を配して臨みましたが、 武蔵は約束より早い時間に来て物陰にひそみ、大将役の幼い吉岡源次郎を一刀のもとに斬り殺すと、疾風のように去った、と伝えられています。 松の木は八大神社に移し植えられています。
「詩仙堂見学」
詩仙堂は徳川家の家臣であった石川丈山が隠居のため造営した山荘です。名前の由来は、中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間により名づけられました。ダイアナ妃とチャールズ皇太子が訪れたことでも有名です。
「金福寺(こんぷくじ)」
詩仙堂の少し南にあるこの寺には与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在したとされ、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって再興された芭蕉庵がある。
また舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインである村山たかゆかりの寺として知られる。遺品もしっかりと見てきました。
「木戸孝允宅の離れ(通常は非公開)」
近衛家の下屋敷を譲り受けて別邸となしたもので木造二階建であった。ここにはお手洗いがないので、病人の桂は母屋にいたのではないかということです。  明治10年(1877)5月19日、病気療養中の木戸に明治天皇の行幸があったが、同月26日薨去、享年44歳。 屋敷跡は壮大で、いくつもの旅館が建っています。
説明の方から興味あるお話を聞き出せましたが、この逸話は、知っていました。しかし、隠し子の数は意外でした。ケタが違いましたから。1人だと思っていましたが、11人というのが正解らしいです。桂ファンの方、すいません。でも、幾松の浮気は責められませんね。
「山紫水明處(国定史跡)」
頼山陽が晩年住んでいた水西荘の書斎
一度、中に入ったことがありますが、、印象深く覚えていないので、入る価値とすればあまりないでしょうか。
「女紅場跡(にょこうばあと)」
1872年(皇紀 2532)明治5年 日本で最初の女紅場となった新英学校女紅場が設立された。
「舎密局跡(せいみきょく)」
オランダ語のシェミーの訳語で化学のこと。東京遷都により沈滞した京都の産業振興の目的で京都府が設立した理化学研究所のことである。明治三年(1870)槙村正直により仮設立、同六年(1873)本建築が完成した。ドイツ人ワグネルらの外国講師を招き、広く受講生を集めた。京都の近代産業発達の基礎を築いたが、明治十四年(1881)、槙村の転任により閉鎖されることになった。
建物もその後焼失し、現在は京都市立銅駝美術工芸高等学校が建てられている。
「吉田屋跡(立命館草創の地)」
 山紫水明処から数十b北の駐車場前に立命館草創の地の石碑がある。明治三十三年(1900)に立命館大学の前身、京都法政学校はこの地にあった料亭清輝楼を仮校舎として中川小十郎によって開始され、翌年広小路校舎に移転した。この地に石碑が建てられたのは立命館大学開設100周年を記念してのものである。
 この場所では、平成九年(1997)まで清輝楼と呼ばれる料亭(旅館・大和屋)が営業していた。清輝楼は三本木料亭吉田屋のあとを引き継いだものである。幕末、この附近は花街として賑わっていたらしい。吉田屋は維新の志士が密会の場所としてよく利用した料亭で、かの桂小五郎も出入りしていた。吉田屋に籍を置いていた芸妓幾松が新撰組に追われた桂小五郎を匿って逃がしたという有名な逸話もここで生まれた。
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●京都在住や京都検定の有資格者の知人たちが参加してくれますので、いつも充実した史跡巡りができます。
今回も、十津川屋敷跡という新しくできた碑を紹介してもらえました。
御所の東側、今出川通寄りにあります。
上京区新烏丸頭町下切通上ル
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「十津川屋敷跡」
十津川屋敷は,文久3年、今から146年前に十津川郷士が朝廷に京都御所の警護を願い出て許可され、十津川郷士300人が京都に出向き(半年交代)、御所の警護を8年間行った。当時御所護衛に全国各雄藩に対し、2000石に対し一名出兵せよとの指示があったようです。しかし、十津川郷は藩でもなく、十津川郷全体の石高は1000石あまり、出兵する必要も無く、責務も無いのに、300名も送り出した。300人の郷士の宿舎として、十津川郷から材木を運び十津川屋敷を建築。場所は、京都御所近く、京都市上京区新烏丸通下。面積は536坪半とある。慈受院というお寺の土地を借りて建築したと言います。
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新島襄邸を前だけ見学して、「横井小楠殉節地」を通りました。
結構、この前を通りますね。御所を見学して、長州藩邸の近くで
要所みたいな所にあります。
さて、その暗殺の様子を見ていた、近くの下御霊神社宮司の祖母の話です。
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「突然丸太町の方で銃声が聞こえたので何事かと格子窓から覗くと、すぐ目の前は早数人乱闘の真っ最中であった。駕籠からでた老武士は幾人かの敵を相手に戦う間もなく斬られそうになったので、祖母は思わず顔を背けたと同時にバツと云う音がした。再び覗いた時には老武士はもう斬られて地上に横たわっていた」襲ったのは、十津川郷士ら6名の刺客、一発の銃声から始まりあっという間の出来事だったようです。首を取られ持ち去る刺客たちを追い、下津鹿之助らが小楠の首を取り返し、小楠の羽織で持ち帰ったそうです。その血染めの羽織は熊本の横井小楠記念館「四時軒」に展示されています。